義務教育の現場では「機会は平等」でも「結果も平等」が求められる

暗黒の少年時代を過ごしてきましたライラプスです。

今日は、義務教育における僕にとっての最大の不満を述べたいと思います。

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「機会は平等」でも「結果も平等」が求められる

確かに、義務教育の現場では、日本の子どもたち全員が平等な機会のもとに平等な教育を受けることができます。

しかしこの平等に最大の問題があると考えています。

なぜなら、機会は平等であっても結果も平等であることが求められるからです。

これがどういう意味かというと、平等な機会のもとに受ける教育でも、結果にも平等が求められるということです。

勉強のできる子ども視点では

例えば、勉強のできる子であれば、学校で習ったことに加えてさらに発展系の勉強を自ら進んで頑張ろうとします。学校の課題を見て、「ここはこうだからあれはああだね、でもあれをああしたらどうなるんだろう?」というように、より深く論理的な思考で考えようとします。

しかし、義務教育の現場では教えていない項目については「まだ必要ない」「まだそれを知らない子もいるんだから」と一蹴されてしまいます。

そのため、自ら勉学に励む意志を持った子どもたちから、自ら考える力を奪い、効率よく学ぶ力も奪い、最終的にはやる気そのものを奪ってしまいます。

社会で生きていくためには「学校で教えること」以外にも多くのことが必要です。でも、「学校で教えること」以外は否定され、だからといって世の中のあらゆることを学校で教えてくれるわけでもありません。

このままの教育方法では、自らの意志でたくさんのことに取り組み、将来の目標を自らで考え、自らの力で社会を動かすことのできるであろう子たちから、「考える力」と「才能」を潰してしまうのではないでしょうか?

勉強のできない子ども視点では

逆に、勉強のできない子であっても、学校で教えたことができるようにならなければなりません。多くの教育現場では、勉強のできない子であってもきっちりとできるようなカリキュラムが必要とされます。

しかし、頑張ってもできない子もいます。勉強が苦手な子、特定の科目が苦手な子、中には学習障害を抱えている子もいます。

そのような子に対してできるようになるまでしっかり教えるのかというと実はそうではなく、「なんでできないんだ」「だからお前はダメなんだ」など、否定から入ることも少なくありません。

そのため、頑張ったにもかかわらずそれを責められることによって、できない子が「ぼくはダメなんだ」と、自分を否定する子に育ってしまう可能性も高くなっています。場合によっては学校の勉強についていけないままになり、そのまま学校に行けなくなる例もあります。

このままではできないまま大人になり、やがて社会から必要とされなくなり、取り返しのつかない事態に陥ってしまう可能性が出てくるのではないでしょうか?

できない子をカバーする仕組みも、できる子を伸ばす仕組みも、すべて真逆なほうに向かってしまっているのが今の教育の現状ではないのでしょうか?

どうしてそう思うのか

ここからは僕の自分語りがほとんどとなりますので、苦手な方はブラウザバックお願いします。

僕は幼少期は勉強のできる方でした。物心のつく前からアルファベットを書けていたと両親に言われています。自慢するようで申し訳ありませんが、IQだけは東大生にも勝るとも劣らないほどにはあります。でも実技科目はどれも苦手でした。

そんな僕は学校教育において大きな何かを失ってしまったのではないかと思いました。

小学校に入ってからは、ひらがなもカタカナも漢字も算数もばっちりできることなのに、それを最初から学ぶことに苦痛を感じ、やがて授業を受けることを放棄するに至るような子どもでした。

数を当てはめる計算においても、方程式や代入の理屈を理解しているのに応用することのできない学習に苦痛を感じました。

その一方、体育や音楽が致命的なほどに苦手で、足が遅いことや力が貧弱なことから、常にターゲットとなるような子どもでした。

頑張って解いた理屈を先生に説明してもまだ教えてないでしょと一蹴され、ハードル走でハードルが飛べないことについてみんなから笑われ、やがて勉強の意欲を失いました。

やがて中学校に入ると、それまで培ってきた知識だけでは適応できない問題も増えてきました。僕をターゲットにするような動きも加速し、勉強をするどころではない生活を送っていました。あらゆる不満が爆発し、僕は学校に行かなくなりました。中学に入った頃はトップ10だった成績も、学校にいかなくなる直前にはワースト10まで落ちてしまいました。

今思えば、もっと勉強することを喜ばれて、周囲のサポートをしっかりと受けられて、平和な環境で育っていたのであれば、もう少しはマシな大人になれていたのかもしれません。でも、こうして辛い子供時代を送ってきたからこそ、今の教育への不満を実感して、それをどうにかできないのかと考えられるようになったのかもしれません。

勉強のできる子も、勉強のできない子も、どちらでもない子も、平等な機会のうえでそれぞれ違った結果を出し、それぞれの強みがわかるような、そんな教育を受けられるようになったらいいのにと考えたのでした。

だから僕は、義務教育が嫌いだ。

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